「人間を喰らう巨人」の祖型といえば、ホメーロスの「オデュッセイア」に出てくる一つ目の巨人「キュクロプス」が有名です(但し、「進撃の巨人」の作者:諌山創先生は、「巨人」のモデルは、「地獄先生ぬ~べ~」の「人食いモナリザ」だと述べています。)。

さて、「オデュッセイア」においては、オデュッセウスの一行がキュクロプスの住処である洞窟に入っていたところ、主のポリュペモスに見つかり、部下2人が食べられてしまいます。翌朝、ポリュペモスが誰何したのに対し、オデュッセウスは、自分の名前は「誰もおらぬ」(ウーテイス)であると答えておいて、こん棒でポリュペモスの目を突きます。これに対し、ポリュペモスが周囲に助けを呼びかけたところ、他のキュクロプスたちは、こう尋ねます。「・・・誰かが悪だくみを巡らすか、暴力をふるうかして、お前を殺そうとしているとでもいうのか。」これに対し、ポリュペモスは、「ああ皆の衆、・・・俺を殺そうとしている奴はなあ、「誰もおらぬ」(の)だ。」と答えます(岩波文庫「オデュッセイア(上)」p234~236)。

これについて、木庭先生は、「悪だくみ(奸計)」=枝分節、「暴力(実力)」=無分節、「誰もおらぬ」(オデュッセウス)=分節(すなわち、悪だくみでも暴力でもないものによって結ばれた関係)をそれぞれ指していることを指摘します(「政治の成立」p252)。

ここまでくれば、「巨人」はある種の組織・法人、つまり無分節集団又は枝分節集団の隠喩であるという、私の最初の指摘の趣旨が分かっていただけるのではないでしょうか。

ちなみに、キュクロプスは「目が一つ」、すなわち「頂点が1つ」の巨人であるところ(ここでは枝文節集団の比喩であることが示唆されています。)、諌山先生の「巨人」も、その急所(頂点)は、「頭より下、うなじにかけての縦1m横10cm」であり、やはり「頂点が1つ」という点で共通しています。「② その中核には、どんな場合でも、1人の個人が存在している。」には、こうした意味を含ませています。