話がやや脇道にそれてしまいましたが、柳田によると、(ダジャレのようですが)「家職国家」は「血食国家」でもあったということになります。

さて、法人と「イエ」とがおよそ異質なものであることを明らかにするために、簡単な表を作ってみました。

宗教思想

起源/構成要素

記号化/隔離

所在

基体

目的

  法人

一神教

(但し、キリスト教の受容後)

キリスト(神の息子)の身体(Corpus)

= 教会

(教会は「キリストの身体」の儀礼的表現=記号)

天上

(キリストの身体)

+

地上

(教会)

堅固 慈善・公益

イエ

汎神論 生者

+

死者の霊魂

(Animus)

×

(しかも、死者の霊魂は娑婆にも出現)

地上

(生者)

+

地下

(死者の霊魂)

流動的

存続・永続

 

「法人」については、堅固な基体と慈善・公益目的という縛りに加え、三位一体説に基づき、(神本人ではなく)神の「息子」の(魂ではなく)「身体」という「2重の先送り」を経て、神を勝手に名乗ることがしにくくなっており(「法学再入門」p340)、かつ、人々の結びつきが儀礼空間(教会)内部に隔離されているために、「教会の外で神に直結するという道は排除される」(木庭顕「憲法9条へのカタバシス」p172~)という点が重要です。平たく言えば、「法人」そのものが絶対化・神格化されて「巨人」と化し、個人を圧殺するような状況は回避される仕組みとなっています。

これに対して、「イエ」については、基体と目的に厳しい縛りはなく、存続・永続のためであれば手段を択ばないこともあり得ます。また、「イエ」において人々は常住坐臥結びついており、しかも、「イエ」は、儀礼空間内ではなく一般社会において団体として活動しています。従って、「イエ」が「巨人」化し、構成員や外部の個人を抑圧する危険が生じます。

例えば、柳田は、農民について、開拓可能な土地や分かち与える田畑が存在しない場合、次男次女以下の多くが所帯を持つことを許されず、そればかりか、幼少の段階で「イエ」との縁を切る「委棄」(いき)類似の風習が江戸時代から明治期を通じ広く行われていた事実を指摘しています(前掲・p77~80)。これは、現代で言えば、バブル崩壊後における「非正規雇用の拡大」や「新卒採用の抑制」のようなものであり、「イエ」が個人を抑圧する現象の一種と言ってよいでしょう。

また、社員が50歳前後に達する前に、トップになる1人だけを残し、他の全員を関連会社に出向させるなどして、いわゆる「間引き」を行う業界や組織がありますが、これも、長男のみが家督相続の権利を有していた「イエ」の名残り、すなわち「嫡子単独相続」の残滓であり、個人を抑圧するシステムと見ることが出来るでしょう。