そうすると、「鏡」の意義を理解することが重要ということになりますが、これについては、「『感受性』をその本質とする日本文化」と解釈するのが正しいと考えます。但し、この結論を得るためには、遠回りではあっても、「鏡子の家」や作者の評論などを手がかりとする「外部参照」を行う必要があります。

第一の手がかりは、「鏡子の家」の設定です。この小説が今もなお「失敗作」という烙印を押されたままである最大の原因は、鏡子一家の設定に秘められたアレゴリー(寓意)を、読者が(評論家も)十分理解出来なかった点にあると思われます。最大の難所は「七疋のシェパァドとグレートデン」(新潮文庫版ではp20、p564)で、これを理解できない人が多いのです(野口武彦氏や柴田勝二氏のような専門家ですら、「俗悪と卑俗の象徴」、「戦死者」などと解釈しています。)。これについては、以下のような表にすると分かり易いでしょう。

鏡 子

良 人

七疋のシェパァドとグレートデン

象徴(その1)

神鏡(太陽) 空 間 北辰(北極星) 洋犬=軍用犬と狩猟犬(北斗七星)
象徴(その2) 文 化 日 本 政 治 的 権 威

西洋風の軍国主義と資本主義

犬が夫婦の最初のいさかいの原因になり、はては離婚の理由となり、(家つきの娘である)鏡子は、良人と一緒に「七疋のシェパァドとグレートデン」を追い出したのですが、自由でアナーキーな生活を送っているうちに経済的に行き詰まり、再び良人を家に呼び戻すというのが、この小説の根幹を成すストーリーです。要するに、日本文化は、西洋風の軍国主義や資本主義とは折り合いが悪い(但し、それでも何とか一緒にやっていく)というわけで、明治以降の富国強兵政策(戦後においては日米安保と金融資本主義)に対する強烈な批判となっています。

第二の手がかりは、同時期に書かれた作家による評論における日本文化に関する記述です。「鏡子の家」のエスキース(下絵)とされているのは短編小説「鍵のかかる部屋」(昭和29年(1954年))ですが、その翌年に書かれた「小説家の休暇」(昭和30年(1955年))の中の以下の文章には、「鏡子の家」の着想が顕われています。言うまでもなく、「鏡」は、日本文化の本質(感受性)を一文字で表現したものです。

ただ一つたしかなことは、現代日本の文化が、未曾有の実験にさらされているということである。小さいなりに、一つの国家が、これほど多様な異質の文化を、紛然雑然と同居せしめた例も稀であるが、人が気がつかないもう一つの特徴は、「日本文化にとって真に異質と云えるものがあるか」という問題に懸っている。日本文化は本質的に、彼自ら、こうした異質性を欠いているのではないか。……日本文化は、ともすると、稀有の感受性だけを、その特質としており、他の民族とは範疇を異にしており、質の上で何らの共通性を、従ってその共通性の中に生れる異質性を、本質的に持たぬかもしれないのだ。