ところで、この作者が書いた小説や戯曲で主題が展開される形式は、刑事訴訟法の手続を応用したものであるという点を押さえておく必要があります。すなわち、登場人物たちは、刑事訴訟における被告人と検察官のように、尖鋭な二項対抗関係を描きながら主題を展開させていくのです。「絹と明察」もその例外ではなく、しかも、被告人:駒沢、検察官:大槻と岡野という登場人物間の対立のみならず、「絹と明察」という題名からして対抗関係を表現しているのは極めて珍しいことです。

このように、小説や戯曲の執筆に際して刑事訴訟法の手続を応用したことについては、作者自身が、「刑訴における「証拠」を、小説や戯曲における「主題」とおきかへさへすれば、極言すれば、あとは技術的に全く同一であるべきだと思はれた。」(東大緑会大会プログラム(昭和36年))と述べるとおりであり、この点については、作家が刑事訴訟法を学んだ團藤重光先生も、「証拠」を「要証事実」と訂正した上で言及しています(「わが心の旅路」(昭和61年)p110~)。「絹と明察」の「要証事実」は、おそらく、「『父=政治的権威=故郷』を失った日本人及び日本文化は、『鏡=単なる感受性=虚無』に陥ってしまうのか?」といった風に表現できるのではないかと思います。ここで、「要証事実」を疑問形にしたのは、作家が「作家は作品を書く前に、主題をはっきりとは知ってゐない。・・・・・・作中人物はなお被疑者にとどまるのである。」と述べた点を考慮したものです。

それはそうと、「絹」と「明察」の意味や、検察官役として大槻と岡野という2人の人物を配した理由については、次のとおり、作者自身がズバリ解説しています。「駒沢を批判するものとして、父親に対する息子が大槻ですが、これだけでは足りない。もう一人批判者がほしい。それが岡野です。・・・ドイツの哲学を学んで、破壊の哲学をつくったつもりの男です。・・・岡野は駒沢の中に破壊すべきものを発見する。そして駒沢の死によって決定的に勝つわけですが、ある意味では負けるのです。“絹”(日本的なもの)の代表である駒沢が最後に“明察”の中で死ぬのに、岡野は逆にじめじめした絹的なものにひかれ、ここにドンデン返しが起るわけです。」(前掲「著者と一時間」)。

ここでは、明らかに、岡野という登場人物の重要性が強調されています。したがって、この小説を読む解くためには、岡野の思想、作者のいわゆる「破壊の哲学」を理解することが必須と思われます。ところが、岡野の「破壊の哲学」を理解するのはなかなか難しいのです。