それでは、作者がいうところの「もっとも不気味なもの」、すなわち「文化意志以前の深み」、「人類共有の、暗い、巨大な岩層」、あるいは、ヘルダーリンが「宝」と呼びハイデッガーが「通常の悟性にとって近づき難いもの」(理想社「ヘルダーリンの詩の解明」p35)と形容したものは、一切存在しないのでしょうか。私見では、そうではなく、「もっとも不気味なもの」が存在することは間違いないのですが、ラカンによれば、それを「無意識」と呼ぶのは不適切ということになるものと考えます。

ラカンのタームで言えば、「現実界」こそが、「もっとも不気味なもの」と呼ぶにふさわしいものかもしれません。「現実界」というのは、「想像界」及び「象徴界」と並ぶ精神の三大領域を指しますが、これについては、精神科医の斎藤環先生が分かりやすく解説して下さっています。以下は、「生き延びるためのラカン 第6回 象徴界とエディプス」からの引用です。

今ヒット中のディズニー映画『モンスターズ・インク』は、フルCGのアニメーションだけど、このCG画面を例にとって考えてみる。このとき画面上に映し出された女の子やモンスターたちの画像イメージが「想像界」にあたる。ところで、そのイメージを作り出すには、何万行ものプログラムが背後にあるわけだ。もちろん、プログラム言語をどんなにじっと眺めても、イメージのかけらも浮かんでこない。それはどこまでも、無意味な文字の羅列にしかみえないだろう。この文字列が「象徴界」にあたる。さらに、プログラムが走るには、パソコンのハードウェアが動かなくちゃならない。そしてもちろん、このハードウェアの作動については、僕たちは何もじかに理解することができないし、そこに手を加えることも不可能だ。いわば認識のラチ外にある世界なわけだ。これがラカンのいうところの「現実界」に相当するということになる。

平たく言えば、「想像界」はイメージの世界、「象徴界」は言葉(正確にはシニフィアン)の世界(ラカンによれば、ひとつの言語のように構造化された「無意識」はここに属します。)、「現実界」はイメージによっても言葉によっても把握出来ない世界を指しています。ここで、斎藤先生(生き延びるためのラカン 第16回 「現実界」はどこにある?)も指摘するとおり、「現実界」の概念は、イマヌエル・カントの「物自体(Ding an sich)」を彷彿とさせます。直観の形式(空間と時間)が妥当せず、思考のカテゴリー(量、質、関係、様相)によっても整理しきれないという点において、両者は共通しているからです。そういえば、フロイトも、「エスはいかなる論理的法則をも持たず、時間の観念もない。」と指摘しています(但し、これは主に「無意識」についての議論でした。)。

このような、(言葉のように)構造化されていない、理性や悟性によるアクセスを拒絶する、無分節な領域こそが、「もっとも不気味なもの」、「人類共有の、暗い、巨大な岩層」と呼ぶにふさわしいと考えられるわけです。