この映画は、海兵隊に入隊した若者たちが髪の毛を勢いよく(動物用の)バリカンで刈られる場面から始まります。この狙いは、分節状態の解消=ユニフォーム(Uniform, Ein-form)化にあります。無分節集団を形成するためには、構成員が髪型などの個性によって分節化していてはならないからですが、「制服」の着用は一般企業でも行われる儀礼の1つです。
次に、隊員たちは、生来の名前ではなく、ハートマン軍曹(R・リー・アーメイ)が名付けたあだ名、例えば、”ジョーカー”(マシュー・モディーン)、“ゴーマー・パイル”(「微笑みデブ」という意味)(ヴィンセント・ドノフリオ)、“カウボーイ”(アーリス・ハワード)などと呼ばれることとなります。これは、個人を自分の名前と切り離すことにより、その名前と分かちがたく結びついた当該人物の歴史・記憶を消去して初期化すること、すなわち、通過儀礼=イニシエーションの始まりを意味しています。
さらに、ハートマン軍曹は、隊員たちの言葉の使用を制限し、また、日常ではおよそ使用しないような強烈な言葉で隊員たちを罵倒します。次の台詞は、その一例です。
「話し掛けられた時以外口を開くな。口でクソたれる前と後に“サー”と言え。分かったか ウジ虫ども」
「貴様ら雌豚が おれの訓練に生き残れたら各人が兵器となる。戦争に祈りをささげる死の司祭だ。その日まではウジ虫だ!地球上で最下等の生命体だ!貴様らは人間ではない。両生動物のクソをかき集めた値打ちしかない!」
この狙いは、言葉を用いて思考することを禁止し、あるいは、言葉の機能を極端に制限することにより、隊員たちを日常から乖離させ、現実感覚を喪失させることにあると思われますが、もちろん、イニシエーションの一環です。
当然のことながら、こうしたイニシエーションの目的が問題となります。これについては、端的に言えば、「ロミオとジュリエット」のキャピュレット家とモンタギュー家のように、外部の敵と闘って勝利するため、組織の内部において、構成員を頂点も従属分子もなく一体化し、「皆は一人のために、一人は皆のために」の原理を貫徹させることを目指したものと考えられます(木庭顕「新版 ローマ法案内」p35)。