監督が、この映画で「若いアメリカ人の大人になるための通過儀礼」を描いたと述べたことは既に指摘しましたが、アメリカ人にとっての「通過儀礼」(イニシエーション)は、おそらく2つあります。一つは、キリスト教又はユダヤ教の洗礼であり、もう一つは、映画に出てきた軍事化イニシエーションです。

「アメリカの市民宗教」(Civil Religion in America)という用語は、アメリカの宗教社会学者ロバート・ニーリー・ベラーが使った言葉で、これを「アメリカの見えざる国教」と意訳したのは、神学者・宗教史家の森孝一先生です。「市民宗教」とは、カトリック、プロテスタント及びユダヤ教徒の全てにとって受け入れられる宗教を意味しており、それゆえ、大統領が「神」について語ることはあっても、「イエス・キリスト」について語ることはありません(「宗教からよむ「アメリカ」」p37~38)。ちなみに、ギャラップ社の調査(2018年)によれば、キリスト教徒とユダヤ教徒は、アメリカの人口の71%を占めています。

これに対し、監督がフォーカスしたのは、軍事化イニシエーションでした(但し、既に指摘したとおり、実は「アメリカの市民宗教」の核心部分についても触れています。)。ここで、監督が、軍事化イニシエーションの対象を「アメリカの若者」としており、軍人に限定していない点が重要です。というのは、軍事化イニシエーションないし軍事化の原理一般は、軍隊以外の集団にも浸透し、又は転用されるからです。そのことは、例えば、個人と組織・法人(30)で引用したように、日本を代表する大企業が、(疑似)軍事化イニシエーションに利用されかねないフレーズを社訓として掲げていたことからも分かります。

このように、軍事化イニシエーションないし軍事化の原理一般が市民社会に浸透していく現象は、実は古今東西広くみられるもので、この問題に長く取り組んできた学者の1人が、憲法学者の蟻川恒正先生です。蟻川先生は、かつてのアメリカでみられた、「戦時言論の統制が休戦後も適用される現象」について、次のように指摘しています。

…<wartimeの繰り延べ>―すなわち、本来wartimeのためにある権力が、peacetimeへともちこされる構造―こそ、アメリカ憲法がその成立のはじめから抱え込んでいた憂慮―常備軍の問題―の構造に外ならず、しかも近代立憲主義が最も深刻に対峙せねばならなかった国家権力がかかる軍権力であった…」(「憲法的思惟」p322)

要するに、(常備)軍が存在すれば、それだけで軍事化の原理一般が市民社会に浸透していく危険があるというのです(ちなみに、蟻川先生は、第二東京弁護士会での研修「憲法9条改正――個人の尊厳の見地から-―」(令和元年11月6日開催)においても、同様の趣旨を述べておられます。)。映画の中で、「フルメタル・ジャケット」がゴーマー・パイルとベトナム人少女の「自殺」のために用いられたことは、軍事化による国家の自滅を警告しているようにも思われます。