「この話は遠い昔の外国の作り話であって、現在の日本には関係のない話だよ」と言い切ることが出来る人は、おそらく幸運な方です。海外をみれば、具体的な個人を超越した主体(○〇民族、○○一族、○○王朝、〇〇党など)を仮構し、その存続・永続を絶対視する集団がまだまだ沢山あることが分かります。例えば、目下、あるテリトリーを巡って、A民族=B党がC民族を迫害(浄化)しているというニュースが大きく報じられています。国内を見ても、例えば、(一部の)カイシャの内部を覗くと、クレオンのような思考をさまざまな場面で確認することができます。いくつか例を挙げてみましょう。

① 「うちのカイシャには、『何年かかってもいいので御社に入りたいです』という学生が、毎年たくさん来るんだよね

私は就職氷河期の真っただ中に就職活動を行いましたが、空前の買い手市場を背景に、ある“人気企業”の人事担当者が私に放ったのがこの言葉です。状況からして、「君の代わりはいくらでもいるよ」というニュアンスの言葉でしたので、私は多大な不快感を抱いたのですが、現実の世界でクレオンに遭遇したとすれば、おそらく大抵の人が同じような思いを抱くだろうと思います。これに対し、私が入った会社の人事部長は、入社式で、「皆さん一人一人が我が社の財産です」と述べていました。「財産」という表現が若干気になりますが、こちらはよほど健全な発想だと思います。

② 「ライバルに負けないように全力で働きなさい。代わりはいくらでもいるんだから。

これは、おそらく15年くらい前(「パワー・ハラスメント」などという言葉が流布していなかったころ)まで、多くの会社において、管理職や先輩社員が新入社員にハッパをかける目的で日常的に使用していたフレーズです。これがクレオンと同様の思考から出た言葉であることは言うまでもありません。「君はコストだ。まずムダを削れ。それなくして能力は展開できない。」なども、現代のクレオンが言いそうな言葉です。

このように、一部のカイシャにおいては、社員を「交換可能」な存在(モノ)とみなす思考が蔓延していますが、これが、クレオンをその典型とする部族社会原理の思考と共通のものであることは、もはや多言を要しないと思われます。しかも、この種の思考は、コロナ禍の経済社会においてますます威力を強めています。