バブル期以降の「観念上の軍事化」(疑似軍事化、軍事化の転用)、すなわち「犠牲強要」等として発現するものの原因とメカニズムが学問的に解明されていない点は既に指摘したとおりですが、集団への帰属原理である「血と土」というキーワードを手掛かりにすることによって、この問題をいくらか解明することが出来るように思われます。

観念上の軍事化(現象としては「犠牲強要」等)は、「信用崩壊」が契機となって発現し、あるいは強化されますが(個人と組織・法人(40)、この種の現象がみられるのは景気後退時だけではありません(実際、現在進行中の「観念上の軍事化」は、まだ比較的経済情勢が良好であったバブル後期ころに始まったとみられます。)。むしろ、その基盤には、日本社会の奥深く長年に亘って根付いた、「犠牲強要」等を生み出す何らかの仕組みが横たわっており、これが「信用崩壊」に刺激され、あるいはこれと相俟って作用すると考えるのが自然かもしれません。

こうした発想に基づいて私が提示するのは、「「観念上の軍事化」の基盤には、既に克服されたはずの人身供犠(農耕儀礼の一種)があるところ、信用崩壊等を契機として、これが社会現象として再現実化されてしまうという仮説」、すなわち、「人身供犠農耕儀礼への退行」仮説です。これについては、「血と土」のうち、「土」(テリトリー)から先に見ていくのが分かりやすいと思います。ここでも、柳田國男が大きなヒントを与えてくれています。

農民の家永続には、はやくからかなりの犠牲を必要としていた。武士の家でもこのためには子弟を勘当したり、主人に詰め腹を切らせたりすることさえもないではなかったが、それはよくよくの異常の変であった。これに反して一方は常住に、多数の族員の無理な辛抱を要求していたのであった。一つの家門の旧勢力を保持するには、主人の努力苦心はもちろんであるが、さらにこれを助くる者の完全なる従順、時としては自由の制限さえも必要であった。

多くの男女が嫁取り嫁入りのできない婚姻をしなければならぬことは、決して飛騨の白川村だけではなかった。彼らは僕婢ではないけれども衣食はこれと同じく、しばしば質素以上の悪い生活に甘んじていた。末には主となるべき聟嫁でも、こうして共同の労に復さなければならなかったのは一つだが、次男次女以下に至ってはその希望すらもなかった。附近に余った土地のまだ拓かれぬものがある限りは、もちろん機会を見て独立の計画も立てられ、または嫁聟が縁を求めて出て行くこともしだいには許されるようにはなったが、なお残りの者は家に留まって、下積みの生涯を送ることになっていた。新時代の変化はすなわちまず、この団結の分解をもって始まらなければならなかったのである。」(講談社学芸文庫「明治大正史 世相篇(下)」p77~78)