まず、「次男次女以下が抑圧されていた」という点についてですが、これは比較的容易に肯定できると思われます。我が国における歴史人口学の開祖とも言うべき速水 融先生は、1773年から1869年までの濃尾地方の宗門改帳を分析し、以下のように指摘します。

・・・やはり第一子は幼児死亡率が低い。それが、第六子、末子くらいになるとかなり高くなる。第一子というのは大事にされたといってもいいだろう。・・・これは何も日本に限った現象ではない。たとえばイングランドでも、有名な十七世紀のころのある牧師の日記に出てくる記事で、第一子が生まれたときは子どもの出産についてたくさん書いているが、たくさん生まれたうちの最後の子供の場合は、誰々が生まれたという一行ですませたりしている。」(「歴史人口学で見た日本」p105)

また、「出稼ぎ奉公」に着目すると、新たな様相が明らかとなります。都市(名古屋、京都、大坂)に行くのは、故郷の土地に永住するのが難しい小作層の次男次女以下が大半と考えられますが、彼ら/彼女らについては、出稼ぎ先(都市部)で死ぬ者が多数であり、しかも、故郷に戻っても十分な跡継ぎを残すことが出来ず、「絶家」する場合が多かったのです。都市は、人口の密集等による劣悪な住宅事情や生活環境のため、災害や流行病が多く、死亡率は全年齢層で農村より高かったことが分かっています(鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」p186~)。つまり、都市への「出稼ぎ奉公」は、次男次女以下及びその子孫を絶やす機能を営んでいました(速水・前掲p122~124)。これを速水先生は、「都市アリ地獄説」(速水・前掲p65)と呼びました。

もっとも、第一子(特に長男)を大切にする傾向は、長子相続制を採用する社会では、ある程度共通してみられるようです。古代アーリア人の長子相続制は、宗教的信仰、すなわち、「長男は祖先に対する義務を遂行するためにつくられ、他は愛の実のむすんだものである」という思考に基づくものであり、古代ギリシャもこれを採用していました(フュステル・ド・クーランジュ「古代都市」(白水社)p128)。こうした発想は、柳田が力説する日本人の祖霊信仰(血食)と基本的には同じ考え方に立っているといえます。

ところが、日本(江戸時代)の場合、次男次女以下に対しては、海外と比べても非常に強い抑圧、場合によっては虐待とも言うべき現象が生じている点が注目されます。