江戸時代における日本全体の人口変動を正確に把握するためには、日本全体を網羅する正確かつ統一的な基準に基づくデータ(史料)が必要ですが、残念ながら、「宗門改帳」の作り方には統一性がなく、残り方もバラバラであるため、十分な史料が入手出来ません(速水「歴史人口学でみた日本」p50)。従って、入手可能ないくつかの地域の史料をミクロの視点で分析していく作業を、パッチワーク的に行っていくほかないところ、その結果、大まかに言えば、江戸時代の人口は、穀作農業の生産力(石高)(=耕地面積×生産性)に概ね比例して増減していた(しかも、大きな減少はいずれも饑饉によるもの)、つまり、「土」によって人口が左右されていたということが出来るように思われます(斎藤修「プロト工業化の時代」p245~,浜野潔「歴史人口学で読む江戸日本」p28~)。ちなみに、濃尾地方の史料によれば、絶家、つまり跡継ぎがいなかったというケースは、地主の場合はゼロでした(速水・前掲p123)。やはり、柳田の直観は当たっていたようです。

十分な史料が揃っているのは、諏訪地方や濃尾地方などに限られるそうなのですが、諏訪地方の人口変動については、面白い結果が得られました。すなわち、「17世紀中は一種の人口爆発ともいうべき人口の急上昇があり、その後1720年ころに頭打ちとなって横ばいとなり、1820~1830年ころから再増大して明治に至る」という動きです。このうち、17世紀中の人口爆発の要因について、速水先生は、その背景に家族形態の変化、すなわち「合同家族」から「直系家族」ないし「核家族」への移行があったことを指摘し、その要因として、「兵農分離による都市の市場向け農産物生産の増大」を挙げました(速水・前掲p74以下)。日本の水田のように、耕作面積が狭隘である場合には、(血のつながらない多数の人間たちを含む)大規模な家族よりも、結束の強い小規模な家族(直系家族:父・母と長男夫婦、あるいは核家族:独立した二男以下とその妻など)が集中して働く方が能率がよいというわけです。

他方、濃尾地方の史料(1670年代と1820年代)の分析からは、海岸干拓などによって耕地面積が増大すれば人口も増大すること、人口は増えたけれど家畜飼育コストの増加のため(平地の)馬の数は減ったこと、従ってそれまで以上に人間が勤勉に働くようになったとみられること(いわゆる「勤勉革命」)が分かっています。加えて、種籾の選別や肥料の発達(「金肥」など)などのソフト技術の進化による生産性の向上が指摘されており、この頃の日本は、単位面積当たりの農業生産量では世界最高水準にあったと思われます(同p93以下)。要するに、耕地面積の拡大があったことに加え、(小規模家族の)農民が勤勉に働き、かつソフト技術の進化によって生産性が向上し、これが人口の持続的な増加を支えるという、理想的な人口成長のサイクルが成り立っていたと考えられます。