このように社会的に容認されてきた堕胎・間引ですが、時点を明確に特定するのは難しいものの、穀作農業の生産力(石高)増大によって、おそらく次第に減少していったのではないかと思われます。そのことを示すのが、「捨て子」の(社会的)制度化です。江戸では「捨て子」を自分の家の前にされることを極度にきらったことが荻生徂徠の「政談」に出ているそうですが、「捨て子」が制度化されるに至ったということは、世に出ることを許され、更には一定期間生存できる子どもが増えてきたことを意味しています。

ところが、これに対し、「捨て子」を公的(法的)に禁圧する動きも出てきます。その発端と思われるのが、徳川綱吉による「生類憐み令」です。「生類あはれみ」の対象には、犬だけでなく乳幼児も含まれていたのです。このような「捨て子」の「制度化から禁止へ」という流れを整合的に説明するのは難しいのですが、差しあたり、菅原憲二先生による以下のような説明が考えられます。結局のところ、「イエ」の存続・永続を目的とする点では一貫しているというのです。

菅原は、「捨て子が罪とされた時代は、『家』にかかわる道徳目を重視する将軍綱吉の治世であり、農村においては小農民の『家』が既に成立しており、都市においても有力商人を中心に『家』イデオロギーの形成された時期でもあった」こと、そうしたなかで「小商人においても、下層民においても家継続の願いは、その不安定さに拘らず強固」であり「家内労働力としての子どもを確保することが、零細な家の再生産の基盤」だったと指摘している。」(沢山美果子「江戸の捨て子たち」p37)

しばらく時代を下ると、今度は、堕胎・間引を公的(法的)に禁止する動きが一部に見られるようになります。有名なものとしては、岡田寒泉(1740~1816)、竹垣直温(1742~1814)、寺西封元(1749~1827)という3人の代官による堕胎・間引禁止政策が挙げられます。

東北から関東にかけての地帯は十八世紀の人口減少は甚だしかったが、それは凶作の直接の打撃であるとともに、堕胎・間引の常習地帯であるという事情があったようである。その防止を図るために、右の三人の代官支配地では妊娠した者の監視を厳重に行ない、懐妊書上帳がつくられた。出生児に対しては今の児童手当にあたる養育金を支給することによって出産を奨励し、堕胎・間引の主因となっていた経済的困窮を救おうとしたのである。」(鬼頭 宏「人口から読む日本の歴史」p215~)