丸山眞男先生の「個人析出のさまざまなパターン—近代日本をケースとして—」(丸山眞男全集・第9巻p377~)は、丸山先生が英語で書いた論文を松沢弘陽氏が日本語に翻訳したもので、日本における「近代化の進行に対する反応」としての(主として伝統的農村共同体からの)「個人の析出(individuation)」のパターンを分析したものです。したがって、如何にして「自由で独立の個人」を生み出すかという、本ブログのテーマとは必ずしも問題意識が一致するわけではないのですが、集団から析出された後の「個人」のあり様(必ずしも「自由」で「独立」とは限らない)を考える際には非常に参考になります。

丸山先生は、個人析出のプロセスには、個人の態度の面からして4つのパターン、すなわち、① 「自立化」(individualization)、② 「民主化」(democratization)、③ 「私化」(privatization)、④ 「原子化」(atomization)があると言います。この4つは、水平軸(個人が政治的権威の中心に対して抱く距離の意識の度合い:求心的⇔遠心的)と垂直軸(個々人がお互いの間に自発的に進める結社形成の度合い:結社形成的⇔非結社形成的)によって切り分けることが出来ますが、要約すると、「自立化」は遠心的・結社形成的、「民主化」は結社形成的・求心的、「私化」は遠心的・非結社形成的、「原子化」は非結社形成的・求心的、となります。

「自立化」の典型例としては、遠心的・結社形成的なアメリカ建国時のピューリタンのパーソナリティが挙げられます。これに対抗する「原子化」については、「孤独と不安」を逃れようと焦るあまり権威主義的リーダーシップに帰依し、国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」に没入してしまう都市の個人(その極端な例がヒトラー直前のドイツ)が挙げられます。「民主化」は「自立化」と「原子化」の中間に位置しており、中央政府を通じた改革を志向し大衆運動にも積極的な近代アメリカがその典型例です。その正反対の「私化」した個人は、関心の視野が個人個人の「私的」なことがらに限局されるのが特徴で、社会的実践からの「隠退性向」が顕著です(私見では、村上春樹氏の小説に登場する(「イエ」にも「カイシャ」にも属さない)「僕」は、その典型と思われます。)。

丸山先生の議論を追っていくと、個人が析出される主な契機として、世界的には、都市化・産業化(「民主化」と「原子化」)がありますが、近代日本に目を転じると、日露戦争(知識人や青年層における「私化」)、1900年代における鉱業・造船業・鉄鋼業などに従事する労働者の増大(労働者における「原子化」)、関東大震災(特定の類型は挙げられていません)、1929年の大恐慌(労働者、知識人、ホワイト・カラーの失業による「原子化」)などが出てきます。日本の場合、戦争や自然災害が「個人の析出」の大きな契機となっている点が特徴と言えるでしょう。

このことから容易に推測されるように、日本における「個人の析出」の最大の契機は第二次世界大戦であり、これによって大量の個人が析出されました。典型的な現象は、「イエ」の崩壊による構成員たる個人の析出ですが、これについては、絶対に触れなければならない傑作映画があります。