作者による「無意識」の理解を前提として、「故郷」又は「故里」、「宝(ドイツ的なもの)」、「鏡(日本文化)」、「無意識」をそれぞれ位置づけるとすれば、例えば、おそらく次の表のようになるものと思われます。

 

ヘルダーリン=ハイデッガー

(岡 野)

駒  沢

社 会

 

文 化

 

 

宝(ドイツ的なもの)⊆ 故 里

故 郷=美しい大きな家族(部族社会)

 ↕

鏡(日本文化)

比  較

文  化

人類学

 

 無  意  識(もっとも不気味なもの)

また、これを少しアレンジすると、次のようになります。

 

ヘルダーリン=ハイデッガー

(岡 野)

駒  沢

社 会

 

故 里=美しい大きな家族

(国家社会主義:ナチズム)

故 郷=美しい大きな家族

(部族社会)

文  化

(文 化 意 志 の 欠 如=(駒沢いわく)「鏡」?)

比  較

文  化

人類学

宝(ドイツ的なもの)、鏡(日本文化)

                                                      ⊆

無  意  識(もっとも不気味なもの)

これによると、「宝」(ドイツ的なもの)と「鏡」(日本文化)とは、いずれも「無意識」(もっとも不気味なもの)から表出する、あるいはこれに含まれる点において共通しています。そして、1つ目の表によれば、岡野が考えるところの「故里」は、実は「鏡」(日本文化)と同じ次元に位置していると見ることができ、また、駒沢の「故郷」=「美しい大きな家族」(部族社会)は、その対極、つまり「無意識」(もっとも不気味なもの)からは一番遠くに位置することになります。さらに、2つ目の表によれば、「ドイツ的なもの」が生み出した「故里」=「美しい大きな家族」のひとつの現われが、国家社会主義:ナチズムであったという皮肉まで生じてきます(ちなみに、ナチス期ドイツでは、家共同体に法主体性を付与する「家団論」が有力化しました。)。それゆえ岡野は、「ドンデン返し」を食らい、負けたかのような錯覚に陥ったのでした。

余談ですが、ハイデッガーは、「帰郷-近親者に寄す」(1943年6月6日の講演)の前年(1942年)夏学期の講義において、次のように述べて、異なる文化間の合一を肯定するとともに、アングロサクソン的世界はこれを否定し破壊しようとするものであると批判しています。

帰郷と関わる、即ち帰郷と一なるかかる異国のものとは、帰郷の来歴として帰郷であり、とは即ち、固有にして故郷のものの本質的に有りし原初のものである。ドイツ人の歴史的人間性のかかる異国のものが、ヘルダーリンにとってはギリシア精神である(中略)

アメリカ主義のアングロサクソン的世界が、ヨーロッパ即ちその故郷を、西洋的なるものの原初を、破壊しようと決心していることを、われわれは知っている。」(創文社「ハイデッガー全集・第53巻」p77~)。