駒沢の「カイシャ」(部族社会原理に基づく集団)に対し、大槻の「労働組合」(丸山先生が指摘した「民主化」の典型例ですが、これも結社(集団)です。)をぶつけるだけでは不十分だということに、もちろん作者は気づいていました。これだと、せいぜい集団間のéchange(エシャンジュ:フランス語で、翻訳不能ですが、ここでは「取引」といった程度に解しておきます。)の域を出ず、「アンティゴネ」(主人公は個人として「国家」に抵抗しています。)ほどの感銘をもたらしません。そこで、作者は岡野を動員したのでした。もっとも、駒沢と岡野とが尖鋭な二項対抗関係を形作っているかどうかについては、実は疑問があります。
駒沢が体現する(家父長制的)部族社会原理は、決して日本特有のものではなく、古今東西殆どあらゆるところで見られるものです。このことは、例えば、「アンティゴネ」を読めば、あるいは現在のアジア諸国の統治体制を見ればすぐ分かります。そうすると、作者がこれを「日本的なじめじめしたもの」と規定したところには、根本的な問題があったとみられます。同様に、岡野の「破壊の哲学」を、「日本の土壌には根を下ろしてゐない知識人の輸入思想の代表」(前掲「著者と一時間」)として、駒沢が体現する部族社会原理に単純に対置させたところにも、やはり問題があったと思われます。要するに、作者が意図したような二項対抗関係は、部族社会原理と「破壊の哲学」との間では必ずしも成立していないのです。もっとも、私が見る限り、「破壊の哲学」を導入した点は、小説のラストの「ドンデン返し」には寄与したと思われます。
岡野の「破壊の哲学」(ドイツ哲学)の正体は、作者も認めるとおり、インチキ臭いものというほかありません。岡野は、ハイデッガーの学風を慕っていたとはいうものの、小説の中にハイデッガーの著作からの直接的な引用は殆どなく(p229、p358~くらい)、ハイデッガーは、「神なき神秘哲学」(p79)、すなわち「破壊の哲学」を根拠づけるための、いわば借景に過ぎないのではないかと思われます。むしろ、前面に出てくるのは、(ハイデッガーによって解釈された)フリードリヒ・ヘルダーリンです。中でも、冒頭とラストに出てくる詩「帰郷(ハイムクンフト)」は極めて重要と思われます。