せっかくなので、ここから話はやや脱線しますが、「無意識」について考えてみたいと思います。

前述したような、作者による「無意識」(もっとも不気味なもの)の理解が妥当かどうか、あるいは、「もっとも不気味なもの」を「無意識」と呼んで良いかどうかについては、議論の余地があります。すなわち、「無意識」をどこに位置づけるかという点は重要な問題であり、この点で参考になるのが、ジャック・ラカンの主張です。

われわれはこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungszwang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l’insistance)と名付けたものの中に根拠をおいているのを知りました。」(弘文堂「エクリI」p11)

これを一読して理解できる人はおそらく専門家以外にはいないと思いますが、言わんとするところは、「反復強迫」(つらい経験や記憶であるにもかかわらず、そのことがもたらす不安を繰り返し再現する現象)の原因を、ジークムント・フロイトは(とりわけ死の欲動としての)「自我欲動」(記号ないし言葉を表出しようとする自我の衝動=自己主張)に求めたこと(「快感原則の彼岸」1920年)、つまり、「反復強迫」は、「記号表現の連鎖」が、自ら欲動(自己主張)することによって発生しているという趣旨です。続く文章を引用してみます。

この観念そのものは、l‘ex-sistence(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置付ける必要があります。」(同p11)

これも分かりにくい文章ですが、高田明典先生の解説(光文社新書「難解な文章を読む技術」p222~)に従って解釈すると、ラカンは、「中心(自我欲動の発現)は外部(記号ないし言葉)と相関的な関係にあるところ、無意識の主体は、中心ではなく外部(記号ないし言葉)に位置付けられること」を指摘したと考えられます。つまり、「無意識」は決して自己の内部に存在しているのではなく、端的に言えば「言葉」であって、私たちの外部から「記号表現の連鎖」を打ち込んでくるというわけです。

そうすると、「無意識」(もっとも不気味なもの)を「比較文化人類学」の次元に位置付けた作者の見解は、ラカンによれば誤りということになるでしょう。いうまでもありませんが、少なくとも言葉は、各民族によって異なるものであって、決して「人類共有の、暗い、巨大な岩層」に属するものではないからです。