ここから本題から若干逸れますが、第2部と第3部のあらすじをまとめておきたいと思います。

第2部(「戦場(ベトナム)デビュー」)で監督は、ベトナムに派遣されたジョーカーたちが現実の戦争に直面する場面を描き出します。報道班に配属されたジョーカーは、イニシエーションが完璧に効いているわけではないようで、「死体(血痕や引きずり跡)」の確認にこだわる上官に反論したり、「(テト攻勢のせいで)アン=マーグレットは来なくなったんですね?」などとブラック・ジョークを飛ばしたりしたため、不興を買って前線に飛ばされてしまいます。これに対し、ジョーカー以外の隊員たちは、イニシエーションの効果で現実感覚が麻痺しているため、平然と死体と戯れ、“カウボーイ”のように、テト攻勢について、インタビューでトンチンカンな感想を述べたりします。

When we’re in Hue, when we’re in Hue City… … it’s like a war…

(俺たちがフエに入ったとき、フエ・シティに入ったとき、・・・それはまるで戦争みたいだった・・・) 

「まるで戦争みたいだった」という台詞は、「イニシエーションによる現実感覚の喪失」という監督の意図をパーフェクトに捉えた台詞であり、これがアドリブで出てきたとすれば、アーリス・ハワードは天才的な俳優というべきでしょう。

さて、前線に出たジョーカーは、現地の大佐から、法人理論でいうところの「目的」、すなわち、ベトナム戦争の目的について、次のような説明を受けます。

We are here to help the Vietnamese… because inside every gook, there is an American trying to get out.

我々はベトナム人を助けるためここにやってきた。どのGook(グック(アジア人の蔑称))の中にもAmericanがいて、外に出ようとしているからだ。)

この台詞は、ベトナム戦争の目的というよりは、American(アメリカ人)が自らをどう規定するかという問題に迫るものであり、それだけに、ラストシーン(ミッキー・マウス・クラブ・マーチ)に匹敵するほど重要なシーンであると考えられます。一般の日本人には理解が難しいかもしれませんが、大佐の発言はキリスト教的な霊肉二元論に基づくものであり、American とはthe Spirit(霊)の意であると解されます。これについては、例えば、新約聖書「ローマの信徒への手紙(ロマ書)」(第8章)の次のくだりを参考にするとよいかも知れません。つまり、大佐によれば、アメリカ人とは「内に霊を宿す人々」あるいは「霊」そのものなのです。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう(新共同訳)。