枝分節集団であるイエにせよ、その諸要素が転写されたタイプのカイシャにせよ、これらの集団をひたすらéchange を繰り返すヴィークル(いわばéchangeマシーン)と見て、このヴィークルの「存続・永続」を絶対視する思考が存在します。ところが、こうした思考は、第一に、個人の自由を脅かす危険なものと言えます。

ここで政治と呼ぶのは、紀元前8世紀にギリシャで誕生した、自由を指導原理とする全体社会組織の、その自由を実現する仕組ないし装置のことである。

自由とは、「贈与交換を典型とし、しかし言語行為や記号連関をも含む、échange(交換)によって媒介される相互依存(réciprocité)に由る支配従属関係」からの解放のことである。échangeと無縁に見える端的な暴力もこの関係の一形態である。réciprocitéは定義上集団を発生させ、また集団内と集団間で展開される。かつ、さまざまなリソース、とりわけテリトリーをめぐって発達する。大まかには不透明な利益交換とこれに付随する暴力組織の行動原理である。社会人類学によれば、およそ人間社会に普遍的に見られる事象である。この普遍的なメカニズムからの解放が自由の意味するところとなる。そうであるとすれば、自由は個人のものである。集団こそがréciprocitéの産物であると同時にヴィークルだからである。」(木庭顕「新版 ローマ法案内 現代の法律家のために」p8~9)

第二に、上で指摘した、集団の「存続・永続」を絶対視する思考は、自由を阻害するもの、すなわち、政治ないし政治システム(一個の全体社会の頂点の意思決定を、自由で独立の主体相互間の特別な質を持った厳密な議論によって行い、かつ一義的で明確なその決定を迂回することなく自発的に遂行するシステム)(法律時報90巻5号p60)の前提を崩すものであるため、信用の基盤となるべき bona fides(ボナ・フィデース)を成り立たなくしてしまいます。

さて、ここでbona fides という言葉が出てきましたが、私見では、この概念を理解するのは相当難しいと思います。