こうした「信用」についての従来の基本モデルの弱点(「全体的給付リスク」)を減殺するために、様々な努力が試みられました。例えば、「交換」の要素を希釈化する試みとして、貸付を出来るだけ出資に近づけること(「デット(負債契約)からエクイティー(持分契約)へ」)を挙げることが出来ますが、その典型例は、前に紹介した「短コロ」です。元本を返済しなくとも、利息だけ返済していればよいというのですから、利息を「配当」と同視すれば、ほとんど出資に近いと言えます。ところが、銀行は、融資先の業績が悪化すれば、「短コロ」を元本返済のある「約定付き」に変えること、あるいは、「コロ(転がし)」(期限延長)をやめて全額返済を迫ることも可能なので、結局、借り手の側の不安(「全体的給付リスク」の一つ)は払拭されません。
このように、全体的給付リスクの減殺は容易ではありません。不透明な関係や帰結を克服するためには、結局のところ、個人と組織・法人(42)で塩沢由典先生も示唆したとおり、信用を全く異なる基盤の上に築くほかなく、そのような基盤としては、bona fides に基づく信用以外にはあり得ません(木庭顕「新版 現代日本法へのカタバシス」p241)。すなわち、「政治システムの下に、しかしその政治システムから自由な第二の政治的結合体、自治団体のような如きもの、が複数形成され、なおかつそのバックアップを受けた人々が異なる第二の政治システムをまたがる形で、自由に関係を結ぶ、というシステム」が形成される必要があります。これによって、「当事者が、合意をし、丁度政治的決定に対するようにこれに絶対の信頼を寄せる。まるで対価を期待しないが如くに先に商品を引き渡したり、代金を支払う。もちろん、やがてそれは報われるが、その関係は、無償で給付することが将来(世代)に帰ってくる、という政治的関係に似る。このタイムラグが、信用に該当する」(信用の比較史的諸形態と法)という理想的な状態が実現出来ることとなります。
もっとも、ここで、日本社会においては「政治システム」が成立していない(かつて成立したことがない)ため、そのようなシステムを構築すること自体が難しいのではないかという疑問が沸いてきます。果たして、過去において、「政治システム」(あるいは bona fides) が成立したことがあったのでしょうか?