まず、安土桃山時代において、出生あるいはそれ以前の段階で命を絶つという行為、すなわち、嬰児殺(間引き)及び堕胎が広く行われていました。

ヨーロッパでは、生まれる児を堕胎することはあるにはあるが、滅多にない。日本ではきわめて普通のことで、20回も堕した女性があるほどである。

ヨーロッパでは嬰児が生まれてから殺されるということは滅多に、というよりほとんど全くない。日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足を乗せて殺してしまう」(ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」(岩波文庫)p50~51)

近代以前のヨーロッパでは、嬰児殺や堕胎は殆どなく、時折嬰児遺棄が見られる程度であったことが知られています(沢山美果子「江戸の捨て子たち その肖像」p14~15)。これには、ヨーロッパの場合、生まれてすぐに洗礼を受けると、「教区簿冊」(生まれた子供に洗礼を授けたこと、結婚に立ち会ったこと及び死者の葬儀をしてその教会の墓地に埋葬されたことを牧師が記録して教会に保管している記録)に登録され、亡くなるとキリスト教徒として埋葬されるシステムが存在したことが作用しているのではないかと思われます。対して、日本の場合、生まれてから次の宗門改めが行われるまでに死んでしまった子供は、陽の目を見ることがなかったのです(速水・前掲p102~103)。

次に、嬰児殺(間引き)及び堕胎の対象となるのは男児が多く(ルイス・フロイス・前掲p51)、かつ、次男次女以下が多かったと思われます。そのことは、江戸時代に流布した間引き教戒書の中でもっとも著名な「子孫繁昌手引草」の以下の文章に顕れています(句読点、かな等は田村善次郎氏によるものです。)。

世はなれ山深く住あたりには、子供一人弐人あれば、あとより生まるゝ子はせわなり費(つひへ)也とて、はらめるうちより呑薬さし薬しておろし、又ハ安らかに生まれ出たるを不便とも、かはゆいとも、悪き事とも、恥しき事也とも思はで、手づから返し=返しは産子を殺す事=或は取揚うばといふ者をたのみて情なくも返す事在よし扨々いたはしき事にて、まことにおろか成る事ならずや。