いわゆる「イエ」の制度が全国的に確立したとされるのは17世紀とされていますが、「イエ」の存続・永続に最も固執していたのは、当時の支配階層であった武士でした。このことは、「イエ」の入れ子構造(個人と組織・法人(10))において最大の枠となっていたのが「藩」であったことからすれば当然のことですが、次のような経済的な事情を加味すれば、これが堕胎・間引や捨て子の禁圧につながった理由が分かります。
江戸時代の年貢は村を単位として納めることとなっており、村民は納入について連帯責任を負っていました。年貢を納める農民がいなくなれば、誰か同じ村のほかの農民が代わって納めなければならないので、人口減少に伴って年貢負担はどんどん重くなります。こうして、特に東北地方では、農民の逃亡が相次いだために人口減少が加速し、武士の取り分となる年貢が減少してしまいました(浜野 潔「歴史人口学で読む江戸日本」p103)。これは、藩主にとってみれば、家臣に家禄を支給することを困難にし、ひいては「イエ」の存続を危うくするものにほかならないため、人口の維持・増加のために堕胎・間引を禁止し、出産を奨励する政策が採用されたのです。
ここで注意すべきは、農民には最終的には耕地を放棄して逃げる「逃散」という手段が残されていたのに対し、武士にはそのような手段がなかったということです。このため、藩主は、堕胎・間引の禁止と出産の奨励と併せて農民の「逃散」をも厳しく禁圧したのですが、このことが、今度は、農民階層における「イエ」存続・永続への志向を強めたと思われます。その結果、武士と農民は、「藩」という「イエ」から逃れられなくなり、運命共同体を形成することになったのです。
さて、このように、農民の「逃散」は許されず、かつ、堕胎・間引や捨て子も禁止されるとなれば、(農村)人口が飽和状態に達するであろうことは容易に予測出来ます。案の定、既に18世紀初頭の時点で、日本の人口密度は世界最高水準となっており、人口学で言うところのCarrying capacity(環境収容力)は、おそらく限界に達していたものと見られます。