これに対し、大日本帝国では、神権天皇を頂く集権国家が、伝統的中間団体(特に「イエ」)をもその下請けとして動員する、「中間団体容認型=反個人主義」が採用され、中間団体の危険性はスルーされてしまいました(「憲法」p150)。そして、これに伴い、17世紀以降の日本における最も有力な中間団体(巨人=壁)の一つである「イエ」が大日本帝国憲法によって公式に認知されるとともに、自由で独立の個人の出現は妨げられることとなりました。
大日本国憲法の草案起草者(井上毅ら)によって作成された逐条解説書である「憲法義解」(岩波文庫版ではp47~48)は、第19條(日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得)について、
「分武官に当任し及其の他の公務に就くは門閥に拘らず。是を維新改革の美果の一とす。往昔門地を以て品流を差別せし時に當ては、官を以て家に属し、族に依て職を襲ぎ、賤類に出る者は才能ありと雖も、顕要に登用せらるゝことを得ず。維新の後陋習を一洗して門閥の弊を除き、爵位の等級は一も就官の平等たるに妨ぐることなし。」
として、「官職」の「家」や「族」による世襲(家職)化を廃する旨を述べるものの、その根底にある「イエ」をどうするかという問題は看過されています。そもそも、起草者代表の伊藤博文を含む政府要人の多くが、「イエ」から派生した「藩閥政治」の真っ只中にいたために、自分たちが抱えていた問題は、「灯台下暗し」で見えなかったのかもしれません。
かくして、明治期から第二次大戦の終結に至るまで、日本では、フランスのように、法制度等によって人為的に「自由で独立の個人」を創出する試みはなされないままでした。もっとも、日本でも、人為的ではなく「個人が析出される」現象が生じたことはあり、こうした現象(「個人の析出」))を分析して論文(しかも英文!)にまとめた政治学者が存在しました。