鏡子一家のその後が気になるところですが、ひとまず本題の「絹と明察」に戻ります。
駒沢紡績の社長:駒沢は、今でいうブラック企業の社長です。駒沢紡績の工員に外出の自由はなく、女子工員への手紙は開封され、食事は低劣を極めています。ところが駒沢は、「わしはほんまに、わしが父親(てておや)で、うちの工場で働らいてるもんは、娘や息子や思うてます」(p15)、(社長連中を招いた工場見学会については)「今日はいつもと立場を変えて、わしは子、社長さん連は父親(てておや)、ええ親孝行や思うてます」(p31)、(手のぬくもりについて)「これが人間のつながりや。いわば親子の契りや」(p50)などといった風に、これでもかと言うくらい、どす黒い部族社会原理を鼓吹します。その反面、前述のような労働環境で女子労働者を酷使して勤続4年目までに退職に追い込むなどといった負の側面(p305)や、自身は個々の工員の顔を一つ一つじっくり眺めたことなど一度もなく「父親(てておや)」というのは虚構に過ぎないこと(p305~306)については無自覚です。要するに、駒沢は、単なる欺瞞よりも悪質な「自己欺瞞」にどっぷりと漬かっています。
このように、駒沢紡績という「カイシャ」には「イエ」の諸要素が転写され、これが「一心同体」の組織(つまり枝分節体)の形成に寄与しているわけですが、「イエ」と同じく「永続性」への志向も顕著です。駒沢夫婦には子が生まれず、養子も戦死したため、工員の大槻とその恋人の弘子を「夫婦養子」に迎え、「まじめで働らき者の倅夫婦」に「カイシャ」を継がせようと試みます(p122)。また、病身の駒沢の妻(房江)は、「あても、死んだら、工場の片隅にこまい墓を建ててもらわんならんし」(p115)などと、「カイシャ」による「血食」を夢想します。なお、「イエ」にあっては死者も構成員に含まれること、既に柳田國男が指摘したとおりです。
もっとも、こうした枝分節体(枝分節集団)は、後に説明するように、個人の「犠牲」を必要とします。駒沢紡績でも、劣悪な労働環境で仕事をするうちに胸を病み、故郷に帰って若死にした女工は数知れず(p119)、「カイシャ」の繁栄はこうした「犠牲」によって贖われています。むろん、こうした状況が長続きするはずもなく、大槻を筆頭とする工員らが、駒沢の外遊中に新しい労働組合を組織し、突如蜂起していわゆる「人権スト」を起こします。しかも、大手の紡績会社は新組合を公然と支援しており、その中心には、もう一人の主人公である岡野がいました。
岡野は、若い頃、マルティン・ハイデッガーの学風を慕ってフライブルク大学で学び、帰国して「聖戦哲学研究所」を開所するや、政官財に広く人脈を築いたいわゆるフィクサーです。岡野は、駒沢を敵視する桜紡績社長:村川の依頼を受け、大槻らを誘導して争議を起こさせたのでした。 世論の追い風もあり、組合側は争議で大勝利をおさめますが、ほぼ同時に駒沢は脳血栓で倒れ、わずか17、8日後に亡くなります。病床の駒沢は、前々回に引用した、呪詛の言葉ともいうべき「鏡」のテーマ(「父」を持たない集団は「鏡」(但し、駒沢はこの語をおそらく「虚無」という意味で用いています)に陥る)を呟くものの、同時に、自分と敵対していた人間達もいずれは「美しい大きな家族」という「故郷」へ帰ってくることを確信し、「自分をも含めて、かれらをみな許す」、「四海みな我子やさかいに・・・・・・」という悟りの境地に達します(p337~338)。
このように、駒沢は、徹頭徹尾部族社会原理を体現した人物として描かれていますが、完全な悪役ではなく、むしろ、上述したラスト付近の数ページには作者の共感が滲んでいるように思われます。ちなみに、最終章(第10章)の標題は、「駒沢善次郎の偉大」というものでした。