「先祖の話」は、昭和20年、連日の空襲のさなかで書かれたものですが、「今日の海外進展」は、朝鮮や満蒙への進出を指しています。柳田先生によると、「次男次女以下」を「幸福にしてやりたい」という思いが、「海外進展」、すなわち「土」(テリトリー)の奪取を導いたとされており、要するに、人口問題(端的に言えば食糧問題)が根本にあるという見方です。ここでは、国内における「土」(テリトリー)が人口に比して狭小であることが前提とされている点、また、ここで一挙に軍事化の契機が現れた点に注目すべきです。

もっとも、こうした柳田先生の、例によって論理的というよりも感情的・直感的な見方に対しては、かねてから批判があります。

たとえば『海上の道』(1961)。そこで柳田は、日本民族の起源を示唆しようとしているが、その仮説を支える事実を、推論の秩序に従って列挙するのではなく、昔彼が学生の頃、三河の伊良湖岬の突端で、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たという挿話から始めている。その挿話は、東京へ戻った柳田からその話を聞いた島崎藤村が有名な詩「椰子の実の歌」を作った、という風に続く。それはそれとして面白い。・・・しかしそれは一人の偉大な詩人=学者の生涯に関する面白さであり、美しさであって、日本民族の南方起源の仮説を支える根拠ではない。詩的な随筆としての柳田の文章の光彩は、学問的な議論としての彼の文章の欠点でもあり得たのである。」(加藤周一「日本文学史序説 下」(ちくま学芸文庫)p314~315)

加藤周一氏が指摘するとおり、根拠の希薄さ、すなわち仮説を裏付ける証拠の乏しさと証拠から事実を推認する論理の甘さは、柳田の議論の最大の難点と思われます。彼が学者というよりは「随筆家」といわれる所以です。したがって、柳田の議論については、慎重に、その裏付けを確認していく必要があります。

そこで、歴史的な事実(特に「歴史人口学」の知見)に基づいて、「土(テリトリー)不足のため自由を制約されていた次男次女以下の解放が、土(テリトリー)の拡大=海外進展につながった」という柳田の議論が正しいと言えるどうかを、私なりに検証してみたいと思います。