「手づから返し=返しは産子を殺す事」とは、いわゆる「子返し」のことを指しています。
「間引くことを返すとか戻すと表現する地域が多い。ふつう子オロシを堕胎、出生後の嬰児殺しを間引と解釈しているが、江戸時代に厳密に両者を区別していたかどうかは不明である。堕胎にせよ嬰児殺しにせよ、子供数を制限し、出生間隔を調整する行為はすべて間引と考えられていたのであろう。当時の人々の感覚では、生まれたばかりの子はまだ「出生」したとはみなされず、生かすことが決定された時に、初めて社会的に出生と認められたのである。多くは産声をあげる前に窒息か圧死させるかしたのだが、避妊や堕胎とちがい、性別や身体状況を見極めたうえで選択的に実行できる点で、当事者にはより好都合な面があった。」(鬼頭・前掲p209)
この「返す」又は「戻す」という言葉には、日本の伝統的な死生観の一端が表れています。すなわち、老いて死んだ人を「送る」先(死後の世界)と、嬰児を「返す」又は「戻す」先(生前の世界)とは同じであって、人間は、「生前・死後の世界」からこの世に出たり入ったりするというわけです(但し、「娑婆(この世)→冥界(あの世)→娑婆(この世)」という形での「出戻り」はないようなので、輪廻転生ではありません。)。これは、柳田國男が力説した祖霊信仰(血食)と親和性のある考え方と言うことが出来ると思います。
これに対し、胎児の場合、「返す」ではなく、「水になす」という語が用いられる場合があったことが、例えば、水戸光圀に関する逸話等を集めた「桃源遺事」(1701)の以下の文章から分かります。水戸光圀公も、「水になす」とされようとしたところを助かったのでした。
「御母公、西山公を御懐胎被成候説ゆえあって水になし申様にと威公(頼房)仁兵衛夫婦に仰付けられ候所に仁兵衛私宅にて密に御誕生なし奉り深くかくし御養育仕候」(宮本常一「忘れられた子どもたち」p54)
ちなみに、宮本常一は、当時の状況をこう表現しています。
「間引き、堕胎によって殺された子どもの死体は、海べの村ならば浜辺に捨てられ、川ぞいの村ならば川岸に捨てられ、山間の村ならば沢や河原に捨てられた。また、じぶんの家の床下の土にひそかに埋められることもあった。」(前掲p78)
現在では考えられない恐ろしい光景ですが、堕胎や嬰児殺しが社会的に禁圧されていなかった背景には、「この世に生まれ出るまでの間に処置すればこれを罪悪と考えない風習」(同p54)、そして、「一定の期間がたって宮参りなどが行われるまでは、まだ完全にこの世のものではなく、社会の成員に加われないという、当時の民間の考え方」(同p77)があったことが指摘されています。