「イエ」という表記には、通常用いられている「家」という言葉と区別するという意図があります。「イエ」は、同一の先祖からの「ヒトゲノム」を承継する血縁共同体ではなく(江戸時代、旗本約5000人のうち約23%は養子であり、血縁関係の無い者が一旦途絶えた家を承継する「絶家再興」もありました。)、また、中国の「家」、すなわち「専ら男性の系統をたどって同一の先祖を有すると観念された人々全体」とも異なり、特定の事業(「家業」「家職」)によって結合されこれを承継する一種の機構、要するに、以前説明したように、「法人」類似の団体でした。
このように、「イエ」の本質は「血縁」ではなく、「家業」「家職」とその苗字(屋号)の承継こそが「イエ」を「イエ」たらしめたわけですが、この「イエ」の概念は、17世紀中には(当時の)日本全体に浸透したようです。村も町も、武士の統治組織(「家中」「公儀」(徳川幕府))も、そして禁裏(宮中)も、「イエ」を構成単位とする「イエ」の集合体であり、これを、石井紫郎先生は、「家職国家」と呼びました(渡辺浩「日本政治思想史[十七~十九世紀]」p70~)。余談ですが、「公儀」すなわち徳川家の当主が、原則として代々「徳川家〇」という名を持っていたことは象徴的です。
ここで興味深いのは、渡辺先生が、武士の間の結合(「主君」と「奉公人」の間の「御恩」と「奉公」という二つの絆による結合)を、当初は自然状態における「殺害能力」の格差によって生まれたものと捉えているところです(前掲・p38~)。この考え方によると、「主君」と「奉公人」あるいはその「イエ」同士の結合は、基本的には「無分節体」ということになるものと思われます。ところが、武士以外の人たちも原則として「イエ」に所属しているわけですから、「イエ」には、無分節体と、そうでないもの(すなわち枝分節体)の二種類があったということになります。
しかも、渡辺先生によると、様々な「家業」「家職」を持つ「イエ」という箱は幾重にも積み上げられ、それが「入れ子」構造を成していました。そして、当時の「国」は「藩」を意味しますので(異説もありますが、当時の日本は藩同士が連邦を成す「連邦国家」でした。)、「イエ」は原則としてどこかの「藩」という大きな箱の中の小さな箱であり、個人はその小さな箱の中に存在していたということになります。そうすると、例えば、ある個人は、枝分節体としての「イエ」の構成員であるとともに、その「イエ」が今度は無分節体としての「イエ」の構成要素を成していた、という風に捉えることができます。しかも、「入れ子」構造を前提とすれば、武士の「イエ」の思考・行動様式が、それ以外の「イエ」にも浸透していったという仮説が成り立ちそうです。
大政奉還・明治維新と廃藩置県により、武士階級が消滅し、藩が解体されても、「イエ」がなくなったわけではありません。むしろ、この点に関しては、江戸時代から明治時代にかけての連続性を指摘することが出来ます。すなわち、明治31年の明治民法の親族編と相続編は、基本的には江戸時代の「イエ」制度を承継したものと指摘されていますし、統治機構においても、政界や官界、とりわけ軍部においては、「薩の海軍、長の陸軍」といった風に、一番大きな「イエ」であった藩の紐帯に基づく「藩閥政治」と呼ばれる状況が出現しました。17世紀以来の「イエ」が本格的に解体されたのは、結局のところ、第二次大戦後ということになります。
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