⑥ それは、個人を飲み込み、死に至らしめることもある。

 「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。」

 これは、あるカイシャの社訓の1つです。軍隊かと見まがうような表現ですが、部族社会原理はそもそも軍事化の契機を孕んでいるのですから(木庭顕「憲法9条へのカタバシス」p48ほか)、「イエ」(部族社会の一形態)の諸要素が転写された集団であるカイシャがこういう風に「軍事化」するのは決して不思議ではありません(もっとも、実際に武装するわけではありませんので、「疑似軍事化」とでも呼ぶのが無難でしょうか。)。

ところで、組織・法人がその構成員である個人を死に至らしめる現象、典型的には過労死・過労自殺の問題は、上述した「疑似軍事化」というキーワードで説明出来る場合がありますが、別の観点から、これまた木庭先生のタームである「犠牲強要」という言葉によって説明出来る場合も多いと考えられます。

ここでは、まず「疑似軍事化」について考えてみたいと思いますが、問題を分かりやすくするために、極端な「軍事化」のケースを考えます。素材は、既に「社会人の勉強法・教育法(3)」で採り上げた映画「フルメタル・ジャケット」です。

この映画の製作者・監督であるスタンリー・キューブリックは、「バリー・リンドン」のようないくつかの例外を除き、ほぼ一貫して人間の狂気をテーマとした映画を撮っています。しかも、この「狂気シリーズ」は、「ロリータ」、「博士の異常な愛情  または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」、「2001年宇宙の旅」、「時計仕掛けのオレンジ」、「シャイニング」など、いずれも映画史に名を残す傑作ばかりで、「フルメタル・ジャケット」もその1つに数えることが出来ます。