こうした「観念上の軍事化」、すなわち犠牲強要などの現象が生じる原因は一体何か、また、そのメカニズムはいかなるものであるかが問題となりますが、結局のところ、確かなことは言えないようです。もっとも、いくつか仮説が提示されており、以下の木庭先生の仮説(映画「自転車泥棒」の解説において述べられています。)は、「信用崩壊説」と呼んでよいと思います。

日本の社会はだいたい1930年頃から15年間くらいは、これを激しくやりました。それから、今もまた、けっこうすごいですね。どうしてそうなるか、学問的にはまだ解明されていませんが、経済の面で、もともと余裕がないところへ持ってきて大破綻が起こった。アントニオで言えば、働いて稼ぐ、その元手になるものがどうしても必要なんです。・・・元手、つまり資金、まあ信用が与えられているということですが、ここを供給する余裕がなくなると、みみっちく内側を削ることしかできなくなる。挙げ句の果てには、心理的に追い詰められてわけもなく内側を犠牲に供するようになる。その結果もっと余裕がなくなり悪循環になる。透明で信頼に満ちた組織が築けないと、プレッシャーにさらされたリーダーが意味もなく犠牲を強要するから効率が悪く、いつまで経っても本当の信用が蓄積されないんだけれど、そうするともっともっと犠牲強要で行くしかなくなるわけだ。

  それから、これと競争が関係する。信用のシステムが壊れると、ただなにか物を握っていることしか信用できなくなる。資源獲得を目指して争う。この争いはとっても暴力的になりますが、その争いにすべてを注入するようになり、その注入のためにものすごい犠牲強要が行われる。かつては軍事の方面で、今はビジネスの最先端でそうです。」(「誰のために法は生まれた」p127~128)

ここでは、1930年ころからの(文字通りの)軍事化と、バブル期以降のビジネス界における疑似軍事化=犠牲強要の発生原因とそのメカニズムがどうやら同じなのではないかということが指摘されています。過小資本状態+経済的破綻 → 信用崩壊 → 資源獲得競争 → 犠牲強要 という流れが共通しているというわけです。