ちなみに、柳田國男も、イエから遺棄された子供たちのために孤児院のような施設をつくるべきだと主張していましたが(講談社学術文庫「明治大正史 世相篇(上)」p87)、奇しくも、教会が運営する「孤児のための扶助ハウス」は、法人の原初形態の一つでした(F.C.サヴィニー著、小橋一郎訳「現代ローマ法大系<第2巻>」p236)。
もっとも、孤児を救うためもう一つの「イエ」をつくることを提唱した柳田も、「機械仕掛けの仏」を持ち出した近松も、問題の所在を正しく捉えていなかったため、échangeから逃れることは出来ませんでした。これに対し、映画「近松物語」(1954(昭和29)年)の溝口健二監督は、ウルトラCとも言うべき手法によって、見事にéchange を克服しえたと思われます。
「近松物語」においては、「機械仕掛けの仏」による現実離れした「救済」はなく、むしろストーリーは史実に忠実です。おさんと茂兵衛はラストで死刑に処せられることとなりますが、そこに至るまでの二人の言動には、救済への筋道が示されています。それを最もはっきり示すのが、逃避行の中でなされる二人の以下の会話です。
茂兵衛「今際(いまわ)の際なら罰もあたりますまい、とうにあなた様をお慕いしておりました。」
おさん「おまえの今の一言で死ねんようになった。」
おさんは、愛する人のために死ぬことを拒否しますが、これはまさしく(集団による)「犠牲強要」(échange及びそれによって媒介されるréciprocité)の拒否にほかなりません(木庭顕「誰のために法は生まれた」p55~60)。当時(あるいは現在)の日本社会が抱える病理を正確に把握し、かつ、上述したウルトラCによって克服しようと考えた溝口は、やはり天才的と言えます。